1/5

8時過ぎくらいから採点を開始し、いまひと科目終えたところです。
5科目中、1科目の採点が完了です。人数が少ないと早く終わりますね。
明日は11時半から下手をすると夜8時くらいまで会議なので、
もうひと科目終えるのは難しそうかな? 午前中早く行ってできるだけ進めます。
金曜日には3科目目の答案が手元に来るのでそれまでには終わらせたいところですが、
まぁ木曜の隙間時間3時間も使えば終わるでしょう。
3科目目は土曜のうちに処理します。しばらくはこんなのばっかりです。


研究時間が取りづらい今日この頃。先日の大型試験もそうですが、
ひたすら長い時間が経過するのを待ち続けるというのは一種の修行です。
頭の中は自由なのですが、張り詰めた空気というのもあって、
あまり活発には頭は働きません。そうなると無の境地に辿り着き、
現状を少し違った観点から眺めている自分に気がつきます。
人生とはなんなのか。幸せとはなんなのか。
今回はその答えに迫ってみることにしましょう。


まず大型試験の2日間は,自分の仕事から強制的に距離を取らされ、
「待機」という名の「無の時間」を耐え抜くことが仕事になるわけです。
初めは果てしなく無駄な時間を過ごしていることに憤りを感じます。
もしこれがなければ、この2日間でどれだけ研究が進むだろう。
論文を書くもよし、新たな研究をするもよし、論文を読んで知識を獲得するのもまたよし。
しかしそれらの資料やパソコン,携帯電話の持ち込みは禁じられています。
(時間帯によっては研究室に戻ることができる時間もありますが。)
全国津々浦々の大学教員が巻き込まれているので、
ひとそれぞれが味わう無駄な時間の総和は膨大な時間になることでしょう。
日本の研究事業への大いなる痛手です。
自分のやるべきことができないもどかしさを
どうすることもできないまま時間が過ぎていくのを待ちます。
なんとかその仕事に意味を見出そうとするわけですが,
こんな仕事は誰でもできる, と思うと「どうにかならないものかなぁ」という気持ちになってしまうものです。


しかし,なぜかいつの頃からか「生きていれば幸せなのだ」と感じる瞬間が訪れるのです。
椅子に腰掛けて周囲を見渡しても, 変化のない光景がただただ続き,
いま私に見えるのは, 若い民衆の未来を賭けた必死の形相。
それだけがいまの私に見えるもの。空も見えない。雲も見えない。太陽も見えない。
換気も十分にされていない狭い教室は二酸化炭素が充満し, 呼吸も苦しくなってくる。
耳をすませば聞こえてくる,鉛筆が紙に打ち付けられる音と暖房の単調な低い音。
それだけが, いまの私が感じることのできる音。
でも,ただ待っていればそれは仕事をこなしていることになる。
ただ待つだけの無の時間。ただ待つことだけがいま私に出来ること。
でも, 本当はそれだけじゃない。私は生きている。


人生の長さは人それぞれ。人は, 自分の人生のうちのどれだけを有意義に過ごせるのでしょうか。
ただ待っているだけの私ですが, 病や戦争で命を落としていく人がいることを思えば,
生きているということだけで十分幸せなのではないだろうか。
何もなくても,生きていればそれだけで幸せ。そう思える瞬間が来るのです。
不思議な感覚です。何もしていない時間になってようやく「生きていることを実感する」わけです。
忙しく何かをやっているときは, 夢中だし,達成感もあるし,
それこそ「生きがい」を感じていると思うのですが,
「生きているだけで幸せ」という「生きていることそのもの」を感じてはいない気がします。


無。次元の狭間。時にはそこに行くのも良いことなのかもしれません。
休日出勤にもいろいろなタイプがあって,ブラックカレンダー士のジョブもなかなか奥が深いです(ホントかな)。
無とは一体…うごごご…。