治れ治れ治れ

小学校高学年の時だったかな。初めてお母さんをおんぶして歩くことができたのは。

あれ、嬉しかったなぁ。

もう少し小さい時からの夢だったんだよね。

お母さんをおぶって歩けたら、何かあっても病院に連れて行って治してあげられると思ったんだ。

最初はもちろん無理だったけど、大きくなってそれができるようになった。

「潰れたら困るから」と言いながら体重をかけないようにおそるおそる背中に乗っているのが伝わって来ました。

 

今回は1泊2日で群馬に戻って来たけど、離れていたらすぐに支えられないよ。

実家から通えるくらいの就職先、ないかなぁって思っていたのに。

 

群馬での暮らしは出稼ぎみたいなもので、現実は横浜なんだって再確認したのはここ最近だったかな。

コロナ禍で実家に帰ったのって去年の5月だったから、そのくらいの時だったと思います。

 

自分が通っていた中学校も統合で名前が変わり、

実家の近所のスーパーも変わって、よく行った本屋もレストランもなくなって、

どんどん知らない街になっていくのが怖かった。

でも、親がいる場所はそれだけでふるさとであり続けるんだ。

それがまだ20年以上も続くつもりでいました。

 

だって、退職するタイミングで親が生きている人ばかり最近は見ていたから。

自分もそうだと勝手に思ってた。

 

中学生くらいの時って、ちょっと親と歩くのとか恥ずかしいと思う頃があるけれど、

クラスメイトとかとすれ違ったときに距離を置いたりすると

「どうしたの? 気にすることないじゃない。親子なんだから」

っていう言葉が自然とストンと入って来て、反抗期とかはあまりなかった気がする。

 

高校に時は、クラスで1番の成績を取ったよーって報告して喜んでもらえたの、励みになったなぁ。

 

小学校低学年のときにどこかのレジャー施設に遊びに行った時のことは大きなイベントでした。

シートを敷いてお弁当を食べている時、蜂が飛んで来たんです。そして僕のお腹に止まったんです。

子どもの頃の僕はオドオドして「おかあさーん、ハチきたよー」って伝えたら、

母はびっくりするような行動に出ました。

なんと素手で蜂を叩いて追い払ってくれました。

僕のお腹も同時に殴られたわけだけど、あまりにびっくりして、

「刺されたらどうするの!やめて!」って言ったのを覚えている。

蜂はすぐにどこかに飛んで行って、それ以上襲ってくることはなかったけど、

母に絶大なる信頼を置いたのはその時だったな。

「ああ、この人は自分の危険も顧みずに自分を守ってくれるんだ」って。

何年か後に話したら、そんなことあったっけっていうんだけど、

今でも強く印象に残っています。

 

大学院の修士課程の時、進学するか就職するか迷っていたときも、

ずっと見守ってくれていました。

最後まで僕の決断を待ってくれていた。

そして、どうしたらいいこうしたらいいという類のことは何も言わずに、

しっかり自分で考え抜いて決めなさいって言ってくれた。

僕が決めたことを応援するからって。

早く楽になりたくて、もうどっちかに決めてよって思ったこともあったけど、

ちゃんと僕自身に責任を背負わせてくれた。覚悟をさせてくれた。

中途半端な気持ちのまま、前に進まないように。

 

京都に就職して、ぎっくり腰になったときは、

「自分でなんとかする」って言ったのに飛んで来てくれて結局甘えちゃった。

あまり食べてトイレに行きたくなったら困るから、

大学業務でもらったお菓子で飢えを凌ぎつつ回復をただ静かに待つ対策は、

結局、看病してもらえて立てるようになりました。

 

群馬に来た時も、ちょっと皮膚のかぶれがあって、

広島だったかな、皮膚科でもらったステロイド剤のせいで全身発疹が出た時もありました。

その時は、自分がモンスターになってしまったとか言って見られたくないから来ないでって言っちゃった。

でもすぐに飛んで来て、看病してくれました。

 

キャンプにも行ったし、温泉もたくさん行った。

京都に住んでいる時は、奈良も行ったし大阪も行ったし神戸も行った。

大学の研究室は京都の方にも群馬の方にも来てくれて、見せることができたなぁ。

貯まった貯金でお母さんの好きなよもぎのお餅、25万個買えるようになったよ。

1日1個食べる計算だと684年分食べられるから長生きしてねって言ったこともあったなぁ。

その計算メモ、まだメモ帳に残ってるよ。

 

いっぱい思い出があるんだ。

これからも思い出を作るつもりなんだ。

だから、元気になって。

 

良くなる!良くなる!良くなる!未来は白紙だよ。そこにお母さんがいないとダメだよ!