聖なる審判

「君は、自分の気持ちにウソをついているね?」
「何だって?」
「よく考えてみるのだ。当たっているだろう?」
「そんなことは…」
「ない、と答えれば、それが正しい答えだと思ってはいないかな?」
「正しい…答え…」
「自分の気持ちにウソをついています、と自分から答える人間は見たことがない。
問い詰められて気がついたり白状したりする場合はあると思うがね。
本当に自分の気持ちに正直に生きているか、あるいは、
自分の気持ちに正直に生きているつもりになっているか、そのどちらかだろう」
「俺は俺の気持ちに嘘をついているように見えるのですか?」
「いやいや。悩んでおいでのようだったのでね。問いかけてみただけのことだ。
そもそも自分の気持ちに100%正直に生きることはできないはずだ。
人間は、社会の常識や法、約束、規則、様々なものに縛られて生きているわけだからね」
「では、誰もが自分の気持ちには嘘をついて生きているのですか?」
「そうかもしれないし、違うのかもしれない。
そうだと思えばそうなるし、そうでないと思えばそうでないのかもしれない」
「はっきりしなくて気持ちが悪いですね」
「私は、自分に嘘をついていてもそれは悪いことではないと考えている。
ただ、真実を見極めることは大切なことのように思えるな」
「嘘をついているかついていないか、ということをはっきりさせるということですか?」
「そうだ。人間は、自分にウソをつくことは気持ちの悪いことだと感じるのが自然だろう。
それゆえに、ウソを受け入れなければならない環境に置かれた時、
自分の気持ちの方を捻じ曲げる。あるいは、ウソを真実として受け入れる領域を脳の内部に作り出すのだよ」
「そんなことが本当に起きているんですか?」
「ウソをウソのまま取り入れて記憶しているより、ウソを真実として認めて記憶し続ける方が、
気持ちの上では楽だからね。あるいはこれを順応と呼べなくもないかもしれない」
「そんなことをしたら、不都合は起こらないのでしょうか」
「やりすぎると、真実を見失いすぎた心は行き場をなくすことにもなりかねん。
もっともそこまで多くの自分の気持ちを捻じ曲げなければならない状況になるほど、
万人にとって生きづらい社会はもともと秩序が崩壊している。
秩序によって、ある程度の気持ちはそのままの形で正当化されるのだ。
ただし、秩序では守りきれなかったウソは必ず人の心の中に存在する」
「俺の心の乱れもそれが原因かもしれません」
「そう思うのならそうだろうし、必ずそうとも言い切れん。
ただもしそうだと思うのならば、真実として一度は捻じ曲げられたウソをウソに戻すことが大切だ」
「嘘を嘘に戻す…」
「しかし問題は…。一度真実の姿をして受け入れられたウソは、真実の姿をして人の心の中に住み着いていることだ。
ひとつ間違えば、真実の方が、つまり元々あった自分の本当の気持ちの方が、新しい記憶の領域に溶け込んだ時にウソとして居場所をなくすことに問題がある」
「とても…恐ろしいことですね」
「心はひとりひとり違う、固有でかけがえのないものだ。それに自己を愛することは他者を愛することにもつながる。
自分の気持ちを捻じ曲げてばかりいては、結局は他者の気持ちをも捻じ曲げてしまうこともある」
「俺はどうすればいいのでしょう」
「自分自身に正直になることだろう。それぞれが望むものはそれぞれに求め続ければ良い。
正しいことがいつも正しいとは限らないのだ。
自分自身の心の中を駆け巡り、本当の思いを解き放たなければ、状況が変わることなどあり得ない。
君の真実は君の中にしか見つけることはできないことを忘れてはならないだろう」
「だったら俺は…。だったら俺は、まだ悲しい気持ちが詰まってる」