「すみません, 叔父様。いろいろとお世話になってしまって」
「なに, 気にする事はないよ。君のお母さんには, 君の事はよろしくと言われていたんだ。自分の家だと思ってゆっくり羽を伸ばしていってくれ」
「ご迷惑おかけしますが, しばらく宜しくお願いします」
私は, 夢を失った私は, あの日から何を目標にして生きていけばいいのかわからなくなった。
研究室に行く事もできなくなってしまい, 大学に辞表も出さないまま,
生まれ育った故郷にいる亡き母の弟を頼ってこの田舎町に帰ってきた。
「それにしても, ハイネちゃんも随分大きくなったね」
「今年で29になります」
「あの雨の日に君がこの家にやってきた時は, 誰だかちっともわからなかったよ。すっかり綺麗になったね」
「…」
「気分がよくないのかい」
「ええ。まだちょっと…。すみません, 少し外を散歩してくればよくなると思います」
この町はいつまでも変わらないわね…。私が育った頃と何ひとつ変わっていないように見えるわ。
でもそれは幻想ね。 時間の流れはあらゆるものを変える力を持っている。
そう。人の心も夢も。大切に思うものが時間の流れに押し流されて, 遠い彼方へ消えてしまう事だってあるわ。
私は, もうあの子を守ることはできない…。あの子の力になる事はできない…。
どうして? どうして私の夢は消えてしまったの? 私はまだ, どんなことにでも一生懸命でいたいのに。
「泣いているの?」
「え?」
私は,小川のせせらぎを聞きながら,流れ行く水がまるで私の心から大切なものを奪っていくような気がして涙を流していた。
「おねえちゃん, 泣いているの?」
「あ, あの…ううん。ちょっと目にゴミが入ったの。今日はちょっと風が埃っぽいわね」
「でも, おねえちゃん, すごく悲しそうな顔をしているよ」
「…」
悲しそうな顔。その時, 私はこの小さな子供に心のすべてを見透かされたような気持ちになった。
「ねぇ! ボクでよかったら話してよ。ボクはアイリス。困っている人の味方だよ」
「アイリス…とてもいい名前ね。私はハイネ。ハイネ・ジュリアノールよ」
「ハイネおねえちゃん。辛い事があるならなんでもボクに話して! どんな事でも力になってみせるから」
無邪気なものね。私にもこの子みたいな頃があったのよね。
「私は…」
言いかけて,大の大人がこんな小さな子供に私の心を打ち明けてしまいそうになったことがおかしくて,小さな笑みをもらした。
「ううん。なんでもない。それより, アイリスの夢を聞かせて? もしかすると, それでおねえちゃん, 元気になれるかも」
「ボクの夢?」
「そう。アイリスの夢…」
私は, 新しい夢を探していたのかもしれない。その夢のためになら, どんな辛い事でも乗り越えられるような力に変わる夢を。無くしてしまった夢の代わりに。
「ボクの夢はナイトになることだよ!」
「!」
私の心は痛んだ。
「ボクは大切なものを守りたいんだ。だから強くなる。強くなって大切なものを守る!」
この子の夢は私と同じ。私が, 叶えられなかった夢と同じ。
「君の大切なものって?」
「うーん。まだわかんない。でもね, 父さんがいつも言うんだ。大人になったら, 絶対に守らなければならない大切なものが必ずできるんだって。『お前は, 大切なものを守るときに絶対に諦めちゃいけない。辛くても逃げ出しちゃいけない。お前が大切なものを守れる大人になるように, 父さんはお前を厳しく育てるからな』って昨日も言われたよ。ねぇ, おねえちゃんには, 大切なものってある? ボク, 参考にしたいから, 教えて…おねえちゃん, どうしたの!?」
私は, 涙が止まらなかった。私だって, 守りたかった。諦めたくなんかなかった。あなたを守るためになら,私はどんな困難だって乗り越えてみせる…そう, 思ってた。いまだって,いますぐにあなたの下へ駆け出して,あなたを守るために私の力を使いたいのに。私は,私の力を使ってはダメ。あなたを守りたいと思ってはダメ。私の力は使えない。私は力を使えない。
気が付けば,私はアイリスを抱きしめていた。
「おねえちゃん…」
アイリスを抱きしめて,あの人の名前を叫んだ。アイリスはずっと黙って,少しも動かずに私に抱きしめられていた。
「ごめんなさい,アイリス」
「ううん。大丈夫? ハイネおねえちゃん」
「ええ。あなたのお陰で少し元気が出たわ」
「良かった。ボクはおねえちゃんの味方だよ。おねえちゃんが辛い時はボクが守るから」
「ありがとう。あなたは,名前の通り,まっすぐに生きているのね」
「?」
私は,アイリスの頭を撫でて,くしゃくしゃになったアイリスの髪を整えた。
「あ,ボク,そろそろ行かないと! そろそろ父さんの稽古の時間なんだ」
「今日はありがとう。アイリス? 大切なもの,見つかるといいわね」
「うん! バイバイ,おねえちゃん」
アイリス。あなたなら,大切なものを守れるのかもしれないわね。
だって,あなたと同じ名を持つ花の言葉は…『あなたを大切にします』なのですもの。
「ハイネちゃん。ブラウンさんという人から手紙が届いているよ」
「ブラウンから…。ありがとう,伯父様」
私は,自室に戻った後,ブラウンから届いた手紙の封を解いた。
たった一行だけのあなたからの手紙。一体どういうつもりなのかしら。
それでも私は,この時,今日3度目の涙を流した。
『親愛なるハイネ・ジュリアノール君
僕は, 君の笑顔を必ず取り戻してみせるよ。
ファイン・ブラウン』
バカね…。私の夢はもうないのよ…。