プロローグ

ジュリア「私はいま, この分野に詳しい
ファイン・ブラウン教授の研究室を訪問しております。
本日は, 私, ハイネがブラウン教授の最新のご研究についてお話を伺う予定です。
それではブラウン教授, 宜しくお願い致します」
ブラウン「宜しくお願い致します」
ジュリア「まずは, 本日は大変お忙しい所, このような機会を頂きまして本当にありがとうございました。
先日の研究会の際もお話をされていましたが, ブラウン教授は…」
そういってハイネは, レポーターとしての仕事を続けた。これは僕達の出会いの物語。


彼女の名前はハイネ・ジュリアノール。
彼女はある日, テレビ局のレポーターとして
僕の研究についてインタビューをするために研究室にやってきた。
彼女は, 終始笑顔を作り, 事前に打ち合わせていた質問内容を私に投げかけた。
彼女の仕事はそつがなく, 悪く言えばあまり印象に残るものではなかった。
というのも, 私はそれまでに数多くのインタビューを受けていたので,
よほど特徴がなければ, ひとつひとつの仕事はやがて忘れてしまうのも仕方がないことなのだ。
ひと通りの質問事項に答えた後, それも極短い時間で, インタビューは終了した。
僕はその時, 再び彼女が僕の研究室を訪れる事になるとは想像していなかった。


それから数週間後。特に珍しい事でもないが, 僕の研究室の電話が呼び鈴を鳴らした。
事務員「ブラウン教授。ハイネ・ジュリアノールさんという方がお見えになられています。
お通ししても宜しいでしょうか?」
ブラウン「ハイネ・ジュリアノール? えーと, 誰だったかな。
今日は誰かに会う約束をしていなかったような気がするが, 僕の覚え違いがあったかもしれない。
僕の研究室に来て頂けるようにお話してください」
事務員「わかりました」


それから間もなくして, ハイネは僕の研究室のドアをノックした。
ジュリア「こんにちは。突然お伺いしてしまって申し訳ありません。
先日はお忙しい所, 私達の仕事にお時間を割いて頂いて本当にありがとうございました」
ブラウン「いえいえ。ああいった仕事をするのは広報活動の一環として役立つものだからとかいう理由で,
大学側からもしつこく引き受けるように言われていますし, お気になさらないで下さい」
僕は, 彼女が研究室にたどり着く前に, 棚の中の木箱から「H」で始まる人物の名刺を探し,
彼女の職業をなんとか事前に思い出す事ができていたから, 自然な対応をする事ができた。


ジュリア「今日お伺い致しましたのは, この花を先生にお届けしようと思いまして」
ブラウン「その花を僕に?」
ジュリア「この花は, アクレイギアといいます。先生は, この花の花言葉をご存知ですか」
ブラウン「いや。僕は植物の事はよくわからなくて, その花の名前も始めて聞いたくらいです」
ジュリア「そうですか。この花の花言葉は『必ず手に入れる』だといわれています。先日お世話になったお礼に,
先生の次のご研究がうまくいくことを願ってついお持ちしてしまいました。ご迷惑だったでしょうか」
ブラウン「いえ, そんなことはありません。
まさかレポーターの君にそんな事をしてもらえるとは思っていなかったものだから,
どう答えていいかわからないというのはありますが,
このようなことをしてくださったレポーターの方は初めてですので, 嬉しく思っています」
ジュリア「そう言っていただけて良かったです」
ブラウン「えーと。弱ったな。せっかく素敵な花を持って訪ねてきてくれた女性をもてなすものが,
この研究室には見つからないんだ。そうだハイネさん, もしこの後お時間があるようでしたら,
ご迷惑かもしれませんが, お食事でもご一緒できませんか」
ジュリア「え? あ, はい。ありがとうございます。
ご迷惑だなんて…私の方こそなんだかかえって気を使わせてしまったみたいですね」
ブラウン「そんなことはないですよ。では準備しますから少しお待ちいただけますか」


僕は, 知り合ったばかりの, 正確には数週間前に知り合った彼女を連れて, シオンという店を訪れた。
ジュリア「素敵なお店ですね。先生はよくこのお店に?」
ブラウン「ええ。僕はここによく音楽を聴きに来るんです。今日は金曜日だからショパンが楽しめるはずですね」
ジュリア「曜日によって音楽家が変わるということですか?」
ブラウン「そうです。もし明日ここを訪れれば, バッハの協奏曲が楽しめると思います。
詳しい曲目は, そこの壁に書かれているから気になるようでしたらいつか眺めてみてもいいかもしれません」
ジュリア「そうですね。それに私は, あの花が大好きなんです」
僕は, ハイネの指先を目で追いかけた。
ジュリア「このお店と同じ名前を持つ花, シオン。花言葉は『遠方にいる人を思う』『思い出』『君を忘れない』」
ブラウン「ハイネさんは花言葉に詳しいんですね」
ジュリア「子供の頃から母がよく私に教えてくれました。
母は, 私が今の仕事を始めて少しして亡くなってしまいましたけど」
ブラウン「そうでしたか。辛い事を思い出させてしまったようですね」
ジュリア「いえ。そんなことはありません。シオンは私の母が一番好きだった花です。
だから, 今ここでシオンに会えて, 優しい『思い出』に触れる事ができたような気がしているんですよ」
そう言って彼女は優しく微笑みかけてくれた。
ジュリア「私は, 大切な人との思い出は, ずっと大切に心の中にしまっておきたいんです。
私の母はいまも私の心の中で生きていますし, シオンを見る度に優しかった母を思い出す事ができます」


それから僕達は, ショパン夜想曲モーツアルトピアノソナタがシオンの花を優しく包むこの場所で, 度々お互いのことについて話し合った。
ブラウン「待たせたね, ジュリア」
ジュリア「大丈夫よ。お仕事, 相変わらず忙しいのね」
ある時, 僕は大学側に新しい研究を始めるための予算が付いて, その関係で新しく秘書を募集しているという話をジュリアにした。すると彼女は何やら興味を持ったらしく, 仕事の内容や採用条件などを聞いては次々と手帳にメモを取っていった。そして, 数ヵ月後, 彼女はレポーターの仕事を辞め, 僕達は同じ職場で働く事となった。秘書としての仕事をしながら, 彼女は僕の研究に役立つ資料を集めてくれたり, 時々勤務時間を越えて僕の研究を手伝ってくれたりもした。僕が机で考え込んでいると, ふと窓から外を見たときに, ジュリアが花壇の手入れをしているのを見かけることもある。花壇に咲くアクレイギアの花はほとんど彼女が手入れをしていると言ってよいのかもしれない。元々, 修士号を取得していた彼女は, 研究の面でも徐々に頭角を現していった。彼女はいつも笑顔を絶やす事がなかった。研究に参加するようになってからは, 本当に楽しそうに日々を過ごしていた。それなのに, ある出来事が彼女を変えてしまうことになった。 彼女の言葉とは思えないこの言葉はいまも僕の胸に突き刺さっている。


「だからね, ブラウン。私はしばらくの間, 夢を見ないで生きると心に決めたの」