個性を消したい

■心の模様替え
自分でも理由はよくわからないのですが、最近「個性を消したい」と思うことが多いです。
本当に理由はよくわからないのです。
何か落ち込むことがあったとか、個性を出しすぎちゃったかなって反省することがあったとか、
特別な原因があって思ったことではないんです。
だから、その言葉がどんな意味を持っているのか、はっきりした目的はなくて、
ただ「個性を消したい」という言葉で表現される何かを心が感じている。
整理されていないのでなんとも言えないのですが、
「物事を客観的に見たい」ということなのかもしれません。
主観的な視点では見ることができない何かがあるのならそれを感じたい。
だから一時的に「個性を消したい」。
個性と結びついた主観を一時的に切り離したい。そうした状況で何を考えることが出来るのか知りたい。
ネガティブになっているわけではないので「個性を捨てたい」という意味ではないように思います。


なんていうのかな。この年齢になるとなのか、いま居る環境のせいなのか、
自分のことを批評してくれる人ってあんまりいないんですよ。
「もっと頑張らなくちゃダメ!」とか「しっかりしなさい!」とか注意してくれる人が周りにはいません。
でも、大人だから責任のある行動を選択できなければならないし、
自分のことはちゃんと自分で決定する力がなければいけません。
そういうのがあってこそ大人なんだし、頑張らなくちゃいけないな、って一番感じるわけですが、
ときどき思うんです。自分の行動って合ってるのかな?って。
正解なのかな、間違ってないのかな。
誰も何も注意してくれないのは、自分がどういう風に見えているからなんだろう。
もう周りの人から見捨てられていて、誰からも相手にされなくなっていたりしないよな…?
悪いところがあれば全部変えていきたい。
自分の気持ちはいくつなくなってもいいんです。
僕には守らなければならない自分の個性なんかなくて、
誰かのためになることがあれば、それをすごく一生懸命頑張りたいし、
誰かのためにならないことをしているんだったら、ちゃんと改善できるように意識したい。
とにかく何でもいいから、頑張りたい。
大きなことは何にもできないけれど、自分でもできる誰かのためが欲しい。
何にもできないのが一番悔しくて寂しいです。
あぁ、「個性を消したい」ってこういうことだったのか。
漠然と「個性を消したい個性を消したい」って思っていたけど、
考えてもよくわからなかったんです。
文章にすればちょっとは話が進むかなって思って思いつくままに書いてみたら、
とりあえずこういう形になりました。


『例のあの期間』が始まった起因も同じ気持ち。
d「博士課程入試を受けても受かるとは限らないですよね」
先生「えー、でもあなたはもう自分の結果を持っているんだし、
しかもそれを受験する大学の雑誌に投稿しているんだし、
落ちる理由が見つからないですよね」


「落ちる理由が見つからないですよね」


「見つけてくれ」ってそれから何度も考えてたな。人生はそんなに甘くないはずなんだ。
先生の目には僕がどんな風に映っているのか知らないないけれど、
僕にはこれからも新しい結果を出し続けていけるのか自信がない。
というか、僕は諦めるために数学をやっていたんですよ?
精一杯やっても自分はこれだけ。
人生の厳しさを味わいたかったのに、何にも苦労しないでここまで来てしまった。
気が付いたら修論が終わっていた。
これまで考えていた問題は修論用(かつ投稿用)だったということすら知らないまま解析が終わってしまった。
M1の夏休みの宿題だと思っていた。
ちゃんと、「修論を頑張っている」っていう実感が欲しかったのに、これじゃ心に何にも残らないよ…。


心の修論が欲しい。いろんなものを我慢して、辛くて、厳しくて、大変だった。そういう記憶が欲しい。
ないのなら、作ればいい。そうして、ゴールを決めないまま、
自分が想像できる「過酷な状況」というのをなるべく再現しようとした。


いま、『例のあの期間』はもう完全に過去のこと。
そして「個性を消したい」という言葉は認めざるを得ない現在のこと。
この気持ちにどう決着をつけるかはこれからの課題、ということなのかな。
僕は一体、何を反省しようとしているんだろう?